落語家の桂ざこばさんが、2024年6月12日に喘息のため亡くなりました。
76歳でした。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
人情の噺家(はなしか)として知られ、人々を魅了し続けた桂ざこばさん。
そこでこの記事では、故中桂ざこばさんの経歴や名前について詳しくご紹介してまいります。
桂ざこばのwikiプロフィール経歴
まずは、桂ざこばさんのプロフィールについて見ていきましょう。
以下、表にまとめてみました。
芸名 | 桂ざこば |
本名 | 関口 弘 |
生年月日 | 昭和22年9月21日 |
出身地 | 大阪市 |
血液型 | O型 |
入門日 | 昭和38年 |
師匠 | 桂米朝 |
趣味 | ゴルフ 海外旅行(カジノ) |
その他 | 【1963年】 桂米朝に入門して朝丸 二代目桂ざこばを襲名 【平成4年・15年・23年】 それぞれ上方お笑い大賞 阪市民表彰受賞 |
桂ざこばさんは、中学2年生の時に両親が離婚し、父親に引き取られましたが
その後、父が他界し、母と姉との3人暮らしとなった過去があるようです。
中学生時代にさまざまなアルバイトをして家計を支え、その過程で落語に出会ったとのことでした。
桂米朝の「浮世床」を観て感銘を受け、弟子入りを志願。
初めは断られましたが、何度も通い詰めた結果、1963年(昭和38年)5月に入門が許されたようです。
桂ざこばの若い頃の名前(旧名)は何?
桂ざこばさんの若い頃の名前(旧名)は、桂朝丸(ちょうまる)ということがわかりました。
彼の師匠である桂米朝さんと、元・笑福亭松朝(阪本俊夫)との会話で朝丸にすることを決めたようです。
桂米朝さんは最初「桂米左(よねざ)」という名前を考えていました。
しかし、これを聞いた松朝が「米ばっかりつけんと朝もつけたらどうやネン?」と提案し
「林長丸が出世したように、朝の丸として『朝丸』としたらどうか」と提案したようですね。
桂米朝さんもこれに同意し「桂朝丸」という名前を名乗ることになったとのことです。
初舞台はその3ヶ月後だったそうで、京都拘置所での「子ほめ」と呼ばれる代表的な前座噺のひとつを披露しました。
その一方で、テレビでも活躍の場を広げたようで
関西テレビの「お笑いとんち袋」(1965年)に出演し、日本テレビ系の「ウィークエンダー」ではリポーターとして全国的な知名度を得た桂ざこばさん。
一時期はテレビやラジオで9本のレギュラー番組を持つほどの人気タレントとなっておりました。
桂ざこばの名前の由来
では、「桂ざこば」になった由来は何なのでしょうか?
一つ目は「初代桂ざこば」さんとのつながりにあるのではないでしょうか。
初代桂ざこばさんは、大阪の鮮魚卸売市場「雑喉場(ざこば)」に由来する名前で、上方落語の世界では有名でした。
二代目桂ざこばさんは、その名を継ぐことで上方落語の伝統を受け継ぎ、初代の名誉を守るために襲名したと考えられます。
二つ目は、兄弟子である故桂枝雀さんの提案もあったようです。
枝雀さんは、桂朝丸の名で知られていた彼に対し、より高い地位と名誉を与えるために「二代目桂ざこば」を襲名することを勧めたとのことでした。
多くの弟子たちが故桂枝雀さんから影響を受け、彼の芸風を受け継ぎ、さらなる発展を遂げたようです。
初代桂ざこばについて紹介
初代桂ざこばさんは、慶応3年(1867年)4月25日に大阪府岸和田町で生まれた方で
明治から大正時代にかけて活躍した上方落語家です。
初代桂ざこばさんは、多彩な芸を持ち味としていました。
落語だけでなく、唄や踊りもこなすことができ、様々な場面で観客を楽しませたようですよ。
芸風は爆笑を誘うスタイルで、庶民の生活を生き生きと描写し観客にとても人気だったとのこと。
雑喉場(ざこば)は本来、雑魚と呼ばれる大衆魚を扱った=(イコール)民の為の存在という意味のようです。
民の為の存在でありたい思いから、桂ざこばという名を襲名されたのではないかと私は考えます。
桂ざこばの名前についてまとめ
この記事では桂ざこばさんのプロフィールや名前の由来について紹介してきました。
内容を表にしてまとめてみました。
笑いのセンスと人を寄せ付ける優しい笑顔で、お茶の間からとても人気があった桂ざこばさん。
元気なお姿を拝見できなくなったことがとても寂しいです。
心からご冥福をお祈りいたします。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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